田主丸町植木販売協会
殖木の諏訪神社に建立された植木・苗木発祥の碑
田主丸町では数百年前から様々な植木・苗木業が盛んに行われ、
全国でも有数の植木の町へと発展しました。
その歴史をたどっていくと、自然環境の好条件のみならず、
多くの先人たちの苦労とたゆまない努力に培われていました。
植木のはじまり
 植木が始まったとされる1700年前後は、時まさに元禄時代。戦国時代はすでに遠く、貨幣経済が進み商品流通が盛んになると、人々の暮らしも安定してきました。しかし享保時代になると天災による飢饉がたびたび発生した上、幕府の財政が破綻してきて、そのしわ寄せが農民に降りかかってきます。

 そんな中、高値で取引される植木・苗木を生産することは、年貢に苦しむ農民の生きる糧と希望になったのでした。気温の温暖な九州を横断する筑後川が栄養豊かな水を運び込み、この地では樹木はすくすくと育ちました。やがて苗木技術を追求する先人たちが現れ、次第に田主丸は植木・苗木の里として発展していきます。

竹下武兵衛周直と松山櫨
 寛保二年(1742)有馬藩は国策の一つとして櫨の増殖を奨励しました。竹野郡亀王村(現在の田主丸町大字秋成)の大庄屋であった竹下武兵衛周直は熱心に取り組み、寛延三年(1750)櫨栽培の技術書「農人錦の袋」を世に出します。
「泰平の時代、万民樵蘇(生業)をたのしむ。今この時に相合うこと、甚だしき幸いならずや。予、素より平民生まれ、蚤年(若年)の頃より農事のいとまには果樹を植て是を愛翫し心を種植の業に潜ること、ここに年あり。然るに近世、他の国(中国)より黄櫨の種子わたり、そのはじめ薩摩かたへ預けるがこれ人世有用の良木なりと近き国々に伝え植ゆることすくなからず」。
 武兵衛はその書の冒頭部分で、子供の頃から農業の合間に果物の種を育てては楽しんでいたこと、櫨はとても役に立つ木で、その栽培が九州に広がっていったことなどを記しています。 一揆や享保の大飢饉を経験してきた武兵衛は、享保十五年(1730)ごろから櫨の栽培を始め、この書の中でその栽培の記録と方法を30章にわたって詳しく記し「草木数多有といへども、世間財用に便有ることいまだ此木より感なるはなし」と櫨栽培が農家に多大なる利益をもたらすと奨励しました。 宝暦・明和の頃、耳納山麓の松山(現森部地域)において櫨の自然変異の一品種を発見し「松山櫨」と名付けます。
 この「松山櫨」は、当時の農学者大蔵永常による大著「農家益」の中で「七種の銘柄のうち最上である」と賞される程の逸品で、筑後地域を中心に大いに広がったそうです。topに戻る

苗木業の元祖今村喜左衛門
 寛政元年(1789)、その名が苗木栽培にちなんで名付けられた殖木(旧竹野郡諏訪村)に苗木の名人今村喜左衛門が生まれました。喜左衛門は、盆栽の達人として誉れ高い弟の喜助とともに、苗木、並びに盆栽作りに一生を捧げ、植木苗木業の元祖と言われています。
 喜左衛門が40才の時、文政10年(1827)の暴風雨で家が吹き倒されてしまい、光行平七宅の一部を借りて住むことになりました。それを機に平七は喜左衛門から触発されて苗木栽培を開始。栗木茂平、栗木惣吉氏など周囲の人々も次第に始め、喜左衛門を中心に苗木の大きな輪が急速に広がっていきます。topに戻る

牡丹苗
 殖木(旧竹野郡明石田村)の草場善平はたくさんの牡丹苗を作っており、花の盛りにはその大輪の花を得ようと、多くの客で賑わいました。また石井半蔵も安永年間(1772〜80)頃から牡丹栽培を行い、自分で売りに出かけていたそうです。topに戻る

皐月つつじ
名も高き殖木の里のつつじかな 芳園

田主丸の植木苗木の発祥地「殖木」における皐月つつじを詠んだ俳句です。
 田主丸で皐月つつじの栽培が始まったのは文化時代(1810)頃。今村喜左衛門、子の熊作の他、今村友七、今村忠右ヱ門等多くの栽培家が続々と輩出し、競って改良が加えられました。ついには殖木の地においてつつじの栽培をしない家はないほどまでになり、後年、東京や大阪の大都市や朝鮮、台湾までも輸出されるようになります。明治43年から諏訪神社の境内で開催されるようになったつつじ陳列品評会では遠方からも客を集めたそうです。topに戻る

秋山勘九郎と伊吉櫨
 天保三、四年頃、亀王騒動によって七郡追放となった竹下氏に代わり、人望の厚かった秋山勘九郎正明が大庄屋となります。勘九郎は、松山櫨の改良種である「伊吉櫨」を小郡村から取り寄せ、繁殖を奨励しました。現在田主丸町内に残っている櫨の木は、ほとんど伊吉櫨だと見られています。topに戻る

九紋龍の大流行
 今村喜左衛門の息子熊作は、美濃同大垣(岐阜県大垣市)から桑木の新種九紋龍の桑苗を持ち帰り、苦心惨憺の末にその接木の方法をあみだしました。当時、その一芽が金一両位の高値で、米一俵と同じくらいであったというから、とてつもない値段でした。

 接ぎ木が成功したことから、慶応の末、明治の初期から九紋龍の大流行となります。豊前中津から来た暦売りから一升九両(当時上田一反が十四両)を奮発して買い取ったのが草場次八と二宮庄助の二人でした。二人は慎重な播種育苗によって台木作りに成功したので、以後は桑の台木はみな実生のものを用いるようになり、ついに大量生産ができるようになりました。

 この九紋龍の大流行は明治七年秋から翌八年にかけて最高潮に達し、米一俵に九紋龍苗四本という大高値がつきます。しかしこれによって大利益を得たものもあれば、損失を招いて倒産に陥ったものいました。まるで現在の株取引を思わせます。
 その後九紋龍の流行は衰え、魯桑にとってかわられます。明治二十二年の秋頃は好景気に見舞われ、栽培家は巨利を得ました。多数の継ぎ手は各地に出張し、特に広島地方へ向かいました。topに戻る

田主丸初のネーブル、オレンジ

 明治三十一年、ワシントン・ネーブル、オレンジ苗が初めて輸入されます。田主丸ではいちはやく諏訪の今村米吉氏が、和歌山県からネーブル、オレンジ苗を100本取り寄せて栽培に成功しました。翌年栗木市太郎と共同で1000本を買い入れ、接ぎ木苗の栽培をし、だんだん広まっていきました。当時珍しかったネーブルオレンジの、従来にない甘みが珍重され、高値がつき、たびたび供給不足になるほどだったそうです。


桐苗の増殖

 明治時代、大阪商人が野中地区の別府磯吉に根植の方法を伝えてから、それまで遅遅として進まなかった桐苗生産が、一挙に進展しました。topに戻る


夏みかん
 明治十七年のある日、鞍手郡頓野村の苗木商長富彦七が、かねて知り合いの光行佐太郎(光行平七の息子)のところに、萩の夏みかんの穂を持ってきました。三年後、彦七はまた夏みかんの穂を持って、今度は栗木市太郎を訪ね、一穂と三年生みかん苗一本とを交換してほしいと申し入れます。市太郎は了承し、夏みかんの穂五十本を手に入れました。穂を接ぐのは四月頃というのが定説でしたが、穂の貯蔵法を知らなかった市太郎は、降り積もる雪をかき分けて接いだところ、奇跡的に四月になって見事に新芽を吹きました。古い親木についだところ、どれも二、三年で結実したそうです。
 かくして夏みかんの苗は業者の間で争って栽培され、普及していくことになりました。topに戻る

殖木で発展した苗木栽培
 明治九年、田主丸町の旧竹野郡諏訪村と明石田村が合併し、苗木栽培にちなんで名付けられた新しい「殖木村」が生まれました。
明治二十年頃には、殖木のほとんど全部の家が次第に苗木業者となっていったことから、いかに苗木業が隆盛を誇っていた事がわかります。田主丸町の諏訪神社には「植木苗木発祥の碑」が建立されています。topに戻る

山林用苗

 明治十三年、竹野村の綾部太市は広島県佐伯郡の久保田清から松苗三千本と種子三升を購入し、およそ九十一万本の育苗をしました。これが松の育苗の始まりです。太市は田代軍次、内山恵太郎、内山八次、中村勝太郎、田代要三郎らと共に松、杉、檜の育苗を行い、竹野山林苗木組合を設立し、全国にその販路を拡大しました。販路は関西や関東にまで及び、全国需要の約六割を受け持つに至ります。愛知、千葉の価格は、竹野上地徳の苗の価格によって決定したほどでした。
 このように山林苗の育苗は竹野村から始まり、水縄、水分村へと広がり、農家の人々は副業として、松、杉、桧の育苗に従事しました。竹野から始まった山林用の苗は、やがて戦後の復興から立ち上がる日本の礎となっていったのです。topに戻る


植木市場のはじまり

 昭和三十六年、田主丸苗木交換会が発足し、当時町役場の玄関前広場で交換会が実施されました。この交換会は一躍人気の的となり、九州全域から数千の人が集まり、当時1回の売り上げは百万円を超えていました。
 交換会は現在では植木市と呼ばれ、田主丸町植木農業協同組合によって毎月五の日に行われており、その売り上げは約七億円(平成17年)に達しています。topに戻る


田主丸型接ぎ木用小刀

 植木苗木の歴史を支えた七つ道具の一つに、鍛冶師二宮孫一が打ち出した「田主丸型」と呼ばれる接ぎ木用の小刀の考案があります。この小刀は接ぎ木に最適の反りを持ち、栽培家はその切れ味を保つため、接ぎ木の時期には一日に何回も研いで手入れをします。現在でも接ぎ木に欠かせない道具として、親から子へと伝わり大切に使われています。
接ぎ木用七つ道具。木箱は接ぎ穂入れ。
接ぎ穂や台木の大きさによって大きさの違う小刀を使う。(重富哲雄氏所蔵)

(以上出典:「浮羽郡誌」、栗木桂太郎「殖木の苗木」より)